昨年、開業80周年を迎えたJR鶴見線。京浜工業地帯の工場街を縫って走り、多くの通勤客を運んできた。終戦直後から30年以上にわたり国鉄マンとして働き、同線を見続けてきた小林照明さん(84)=横浜市鶴見区=は、往時を懐かしく振り返る。半生を過ごした、まさに「青春の地」―。
【上中下の3回に分けて掲載します】
鶴見駅から鶴見線に乗って一駅、国道駅には独特の雰囲気が漂っている。高架のホームから階段を下りると、アーチ状の天井の下に薄暗いコンコースが広がり、改札口や便所とともに古びた店舗や個人宅が並ぶ。駅構内の「テナント」、今様にいえば”駅ナカ”のご先祖だろうか。昭和初期の高架下には今、焼鳥屋さんが一軒だけ、気を吐いている。

鶴見線の各駅が無人化されたころ=1971年、弁天橋駅
1971年以降、鶴見を除く鶴見線の各駅は無人駅になったが、小林さんが勤めていたころの国道駅には駅員が配置されていた。鶴見駅の管理下にあったことから、小林さんも国道駅で出札を務めた時期があったという。「あそこは面白い駅でね、水道は駅にあるだけだった。だから、中の人(テナントの住人)は駅の水道を使いに来ていた」。向こう三軒…の、のどかな“ご近所づきあい”があったようだ。
「渡り線(改札口から鶴見方面ホームにつながる通路)の下あたりに洋品店があった。子供服だとかを売っていてね。その家には公衆電話があったので、用事があると電話をかけに行った」とは、そうしたテナントにまつわる一つの記憶。

1996年まで鶴見線を走っていた戦前製の電車「クモハ12」=鶴見駅
鶴見川の河口にほど近く、港町の風情が漂ってもいた。「国道には魚屋が多くてね、仕入れに来る人もいて、生臭い人が多かったよ」「干物や乗りを売る人、割り箸を売る人…年末は魚の買い出しの人で混み合ったね。トタンで作った箱を背負った人たちが、狭い階段でぶつかり合ってガチャガチャと…」
往時の活気を、小林さんは魚のにおいと一緒に記憶している。なにしろ「干物がお茶請けだったよ」というほど。この鮮魚店街は、今も「生麦魚河岸通り」として親しまれている。
(齊藤 大起)