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【鉄道復興ノート】 4 冬に来てください

2011年11月22日 火曜日

岩手県北部の久慈へ向かう国道45号は、ひたすら曲がりくねっていた。バスの運転手さんは慎重にハンドルを回し、最徐行で急カーブを上り下りしてくれるのだが、その丁寧さではカバーできないほどに地形は険しい。久しぶりに車酔いをしてしまった。

三陸といえばなべてリアス式海岸のように思われるが、宮古市を境に趣を異にする。北側は、地殻変動で海底が持ち上がってできた隆起海岸で、だから断崖絶壁の上には平らな台地が広がっている。それは地形図を見れば分かる。海岸には何十キロにもわたって「がけ(岩)」の記号が続き、そこから数十メートル内陸に入っただけで、等高線は100メートル前後を示す。海面から陸地が直立しているのだ。

その三陸海岸の北部に、田野畑村はある。国道が断崖を避けて海岸から3キロほど奥まった場所を通るのに対し、三陸鉄道は、滝のごとく細く短い川が河口に作った、わずかばかりの浜辺を、たどって走る。浜辺は幅100メートルにも満たないような狭いものだが、断崖絶壁の中にあってオアシスのような安堵感を醸していた。そこにささやかな集落と、人の生活があった。

津波は、そういう奥まった場所を選ぶかのように侵入し、町ごと押し流した。海辺にあった三陸鉄道の島越駅も、高架橋もろともさらわれた。今は、駅前広場だった場所に宮沢賢治の石碑がぽつんと立ち、ホームへと続いていた階段が何段かだけ、取り残されるばかりとなっている。

田野畑村に鉄道は欠かせない。車だけではいけない。島越から隣の普代村への三陸鉄道は、入り組んだ山あいを長いトンネルで真っすぐに貫き、2駅、距離にしてわずか11.5キロだが、車で行こうとするとその倍にもなる。曲折しているから、隣村へ行くだけで50分ぐらいかかる。私が身をもって味わったのは、道路の乗り心地の悪さばかりではない。地形が阻んできた時間的、心理的な遠さであった。

三陸鉄道の望月正彦社長は一言、こう言った。「冬に来てみてください」。あの国道は冬になると地吹雪に見舞われ、ときには数メートル先も見えないほど真っ白になる。毎年のように事故が起き、車社会に慣れた地元の人も通るのをためらう…。

かつて、三陸鉄道が通る前、このあたりの高校生は下宿を余儀なくされたという。鉄道のおかげで、宮古へも久慈へも45分ほどで通えるようになった。鉄路が人生を変えることもあるのだ。

(齊藤大起)

島越駅。ホームへの階段だけが残されていた