昨年、開業80周年を迎えたJR鶴見線。京浜工業地帯の工場街を縫って走り、多くの通勤客を運んできた。終戦直後から30年以上にわたり国鉄マンとして働き、同線を見続けてきた小林照明さん(84)=横浜市鶴見区=は、往時を懐かしく振り返る。半生を過ごした、まさに「青春の地」―。
【上中下の3回に分けて掲載します】

チョコレート色の旧型電車73系が走った鶴見線=1979年、国道駅付近
小林さんが国鉄鶴見駅の駅員として採用されたのは、1945(昭和20)年9月1日。終戦からわずか半月後のことだった。同駅の助役をしていた親せきから「人手が足りないから手伝ってくれ」と呼ばれたのだ。
男手が戦地に取られた当時、駅員の多くは女性だった。小林さんは「商業学校の出だから」と、出札(切符売り場)を任された。といっても「実は、出札や改札という言葉の意味すら知らなかった」という。
もちろん、当時は自動券売機などない。窓口に次々とやってくる客から「大森」「川崎」と言われれば、それに見合った運賃の切符を即座に差し出す。そうやって近距離の切符を売るのが最初の仕事だった。「水道橋まで学校に通っていたので、駅名や路線名は分かっていた」。とはいえ、駅名と運賃の組み合わせを暗記するのは、ただ事ではない。「一生懸命覚えた」と小林さん。中には「ボヤボヤやってるんじゃないの」と意地悪くお小言をこぼす先輩もいたとか。そして、出札係は夜までずっと座りっぱなし。「痔の人が多かったですね」
夜は泊まりだった。売り上げの締め切りが大切な仕事だ。切符の裏面に刻印してある番号を基に売れた枚数を勘定し、窓口の現金を照合する。これが「年中合わない」。少なければ自分で埋め合わすのが、当時の習わしだったという。どうしたことか売上金が消えうせ、一晩で24円も補てんする目に遭ったことも。初任給42円のときに、だ。
往時を振り返る小林照明さん=横浜市鶴見区の自宅
つらかったのは終戦直後の食糧事情。夕飯はカボチャの塩煮で「それでも食えればいい方だったよ」。御殿場線の沿線あたりから通う人は白米をうまそうにほおばっていた。20歳前後、食べ盛りの若者のひもじさが、いや増しに増した。
「あれが嫌だったね。米の飯、白いまんま。一番つらかったね」。夜は机の上に布団を敷いて寝た。寝室など、備えられてはいなかった。泊まり~明けを3回繰り返す、そしてようやく休み。「体はきつかったね」
(齊藤 大起)